2026年6月29日月曜日

Google AI Gemini に聞いてみました

” 莫言の「白狗秋千架」の最後の部分「我正在期上…我要个会说话的孩子…你答应了就是救了我了,你不答应就是害死了我了。有一千条理由,有一万个借口,你都不要对我说」ですが、期上についてこの場合妊娠可能な排卵期ととらえて良いですか?また、コーリャン畑へ主人公を導いていく白狗の存在が、主人公が暖に託した彼の飼い犬であったことを考えると、一つの運命的な流れをかんじるのですが、そのさりげない書き方が良いと思います。フオ・ジエンチー監督のこの小説を映画化した作品では、このあたりはまったく描かれておらず、少し残念な気がします。莫言自身が、「小説と映画はまったく別な作品だからそれでよい」と言っているという記事をを呼んだことがありますが、作品の核心なのでちょっと残念な気がします。

 と、Google AI Gemini に聞いてみました。下が、その答えです。いや、今のAIは凄いですね。こんな答えが数秒で出て来るなんて。ちなみに、「白狗秋千架」は、日本語では「白い犬とブランコ」と訳されています。

  

大変鋭く、そして作品の核心を突いた素晴らしい読み解きですね。ご指摘の通り、この「期上」という言葉の解釈や、白狗(白い犬)の象徴性、そして映画版(『故郷の香り』/原題:暖)との比較は、この小説を深く味わう上で非常に重要なポイントです。

それぞれの点について、文学的な背景も含めて整理してみましょう。

1. 「期上」の解釈について

結論から申し上げますと、「妊娠可能な排卵期」と捉えて間違いありません。

中国語の「期(qī)」には「約束の時期」や「特定の周期」という意味がありますが、この文脈における「我正在期上(私は今、その時期にいるの)」は、女性の身体的な排卵周期(受胎可能なタイミング)を明確に指しています。

  • 文脈からの裏付け: 暖(ヌアン)は「言葉の喋れる子どもが欲しい(我要个会说话的孩子)」と懇願しています。彼女の現在の夫(聾唖の木こり)との間には口のきけない子どもたちがおり、彼女は「言葉を持つ優秀な子」を激しく渇望しています。

  • 「救う/殺す」の重み: 「承知してくれたら私を救うことになり、断れば私を殺すことになる」という極限のセリフは、今この瞬間(排卵期)を逃せば、自分の人生を呪縛から救い出す(=言葉を話す我が子を得る)チャンスが二度と訪れないかもしれない、という切迫感から来ています。

莫言は、人間の根源的な生命力や生殖、土地のエネルギーを生々しく描く作家(のちの『赤い高粱』などにも通じる特徴)であり、ここでの「期上」は非常に肉体的かつ生々しい「受胎の好期」を意味しています。

2. 白狗が紡ぐ「運命的な流れ」の美しさ

主人公がかつて暖に託した飼い犬(白狗)が、大人になった主人公を再び暖のもとへ、そしてコーリャン畑(密会の場)へと導いていくプロットの「さりげなさ」への着目は、まさにこの小説の白眉といえます。

  • 過去と現在の架け橋: 犬は、主人公が都会へ去り、暖が故郷に置き去りにされた「あの分かれ道」の記憶そのものです。犬が2人を再び引き合わせる媒介となることで、この再会が単なる偶然ではなく、「断ち切れなかった因縁(運命)」であることを静かに物語っています。

  • 言葉を持たない犬の役割: 言葉を話せない犬が、暖の「言葉を話す子が欲しい」という悲願の舞台(コーリャン畑)へ導くという構造も、非常に皮肉でありながら美しいコントラストを成しています。莫言の、説明過多にならない「語りの技法」が光る部分です。

3. 映画『故郷の香り(暖)』との乖離と莫言の態度

フオ・ジエンチー(霍建起)監督の映画版(2003年)で、この衝撃的なラスト(コーリャン畑での交わりと懇願)が完全にカットされ、淡いノスタルジーと切ない余韻に書き換えられたことに物足りなさを感じるのは、原作の熱量を知る読者として極めて自然な感想です。

なぜ映画では描かれなかったのか?

  1. 中国の検閲(審判)の問題: 当時の中国映画の倫理基準として、既婚女性がかつての恋人と(いくら悲痛な理由があるとはいえ)不倫・受胎を目的とした性交渉を行う描写は、上映許可(龍標)が下りない可能性が非常に高かったためです。

  2. 監督の作風: フオ・ジエンチー監督は『山の郵便配達』に代表されるように、激しい愛憎劇よりも「詩的で美しい風景と、淡く切ない人間模様」を得意とする映像詩人です。莫言の持つ「泥臭く、生々しい人間の本能」は、監督の美学によって意図的に濾過(ろか)されたと言えます。

莫言自身が「映画と小説は別物で良い」と語った背景には、映像化に対する寛容さや大人の対応だけでなく、「自分の小説の持つ『毒』や『生のエネルギー』は、映画という媒体(特に当時の検閲制度下)には収まりきらない」という諦念と自負の双方があったのではないでしょうか。

原作のラストシーンは、一見すると倫理のタブーに触れるものですが、読者には「悲痛なまでの生への執着」と「運命の残酷さ・美しさ」として迫ってきます。それを「期上」という言葉や白狗の誘導から緻密に読み解かれている視点は、まさに莫言文学の本質を捉えていらっしゃると思います。

2026年6月14日日曜日

夏野菜の本命 キュウリの収穫開始

  300本以上植えたキュウリが、いよいよ収穫できるようになりました。明日から直売所に出荷する予定です。キュウリがとれるようになると、夏の農作業はキュウリ中心になります。これから10月まで、キュウリとの長いお付き合いです。

2026年6月13日土曜日

6月の降雨で例年並みに育った馬鈴薯

  5月は高温と小雨で、畑もカラカラに乾ききって、馬鈴薯は葉が枯れてきたので試し掘りしてみても、芋が小さい状態でした。6月に入って、まとまった雨が何回か降って、気温も比較的涼しい日が続き、馬鈴薯の生育に適した条件がやってきたので、芋も例年並みに育ち、6月中旬の収穫にこぎつけることができました。
 生育が遅れていたせいもあって、芋が肥大化して割れてしまうようなことも少なく、良品率はかえって例年より高いようです。今年は、種芋をいつもよりかなり多く60キロほど植えたので、今月中には掘り終わらないかもしれません。

2026年6月12日金曜日

受粉が明暗をわけるズッキーニ

 以前、ズッキーニの受粉作業のことをブログに書きましたが、今日はその結果をお見せします。写真の一番下部にある先の尖ったズッキーニが、受粉作業をしなかったものです。他のはきちんと受粉してあって、スラリとしたきれいなズッキーニになっています。
本当に無知とは恐ろしいもので、どうして良いものができないのだろうかと悩んだこともあって、結局、家庭菜園レベルだから「まあ、仕方無いか」となっていたのですが、直売所の情報交換も馬鹿にはできないな、とあらためて感じたものです。

2026年6月8日月曜日

ブロッコリーは一挙に収穫適期になるので忙しい

  今朝、夜中の雨に濡れたブロッコリーをカッパを着て収穫してきました。ブロッコリーは、蕾が開く前に収穫しなければならないので、収穫適期がとても短いです。苗は、それほどたくさんは植えなかったのですが、昨日と今日はそれぞれ100個以上収穫しました。鮮度が問題になるので、朝明るくなるのを待って収穫して、それを選別袋詰めして、9時半の開店前にお店に持ち込むのですが、100個以上となると大忙しです。
 ところでどういう訳か、今年のブロッコリーの出来はとても良く、平均500グラムぐらいで、中には800グラム以上もあるものもあります。14号の大きな袋にも入れることができないで、結局自家用か近所にお裾分けになるものも出る始末です。

2026年5月31日日曜日

ズッキーニの受粉

 定植してからそれほど経っていないのですが、ズッキーニが花を咲かせ始めました。花は、朝のうちしか開いていないので、朝畑に行ったら、まず最初にズッキーニの受粉作業をおこないます。雄花を摘み取って花びらを除去して、雄しべをむき出しにします。それを、雌花の中の雌しべに付けてやるのです。ズッキーニは、受粉させてやらないと、形の良い良品はとれません。このちょっとした一手間が、ズッキーニ作りには重要なのです。

2026年5月28日木曜日

里芋の植え付け

 春期の播種・定植作業の最後は、里芋の植え付けです。里芋は、気温が上がってこないとなかなか生長しないので、いつも田植えが終わってから植え付けするようにしています。
 今年は、新たな試みとして、「石川早生」を導入してみました。コメリで、予約しておいた「石川早生」の種芋が4月のうちに届いたので、ポットで芽出しをおこないました。8割ほど芽が出そろい、結局100株ほど植え付けました。メインは「土垂」ですが、果たして「石川早生」の結果はどうなるでしょうか。