2011年8月29日月曜日

白菜の育苗

 このあたりでは、白菜の種を蒔くのは、お盆過ぎが適期といわれています。今年は、果菜類の出荷で忙しく、白菜用の圃場を準備することができませんでした。窮余の策として、種をトレイポットに蒔いてみました。ここでしばらく育苗して、圃場に植えようと考えています。私は、純粋に時間稼ぎの観点からそうしたのですが、直接種を蒔くより、この方がいいという人もいます。果たして結果はどうなるでしょうか?

2011年8月25日木曜日

ニンジンの間引き

 ここ数日は、雨ばかり降っているので、雑草の生長もすさまじいです。ちょっと油断すると、雑草が畑を覆い尽くしてしまいます。このところ、何日もかけてニンジンのなかの雑草退治と間引きをおこないました。
 ベータリッチは、畝幅20センチ、間隔5センチがメドと説明書にあるので、その通りにおこないました。5センチでは、やや密植すぎるような気もしますが、この種類は密植の方がよく育つのだそうです。
 ひとみ5寸ニンジンは、ばらまきしたので、間隔は10センチぐらいとるように間引きました。小さいときは、こんなにあけなくてもいいように感じますが、欲をかいて間引きを狭くすると、収穫時によいものがとれません。
 ニンジンの間の草取りは、なんども手でおこなわなくてはならないので、根気と時間がいる作業です。

2011年8月24日水曜日

秋霖のような天気で里芋がのびる

 お盆がすぎて、まだ8月だというのに、秋霖のような天気が続きました。水を好む里芋は、このときとばかりに、大きく生長しました。もう完全に人の背丈を超してしまっています。キュウリなどは、この長雨で駄目になってしまったけれど、作物それぞれで、大きく育つものもあるわけです。

2011年8月20日土曜日

『黄土地上来了日本人』  大野さんの立脚点

 中国大陸における旧日本軍の三光作戦を語ると、一方では必ず「日本軍はそんなにひどいことをしていない」とか、「それは中国のプロパガンダでねつ造だ」などという声が巻き起こってきます。 歴史をありのままに見据えることは、とても大変なことだと感じます。
 この『黄土地上来了日本人』の編者の大野さんを駆り立てている原動力は何でしょうか?たまたま、この本の「前書」が格調高い中国語に訳されて掲載されていたので、コピーしておいたものが手元にあるので、それを元にすこし紹介したいと思います。
    *  *  *
 2003年の10月、延安から北京に向かっていた車が、大雨で立ち往生して、やっとのことで黄河沿いの小さな町まで脱出してきたある日、街を散歩していたらある一人の老婦人に声をかけられたそうです。 (…以下その原文です。)
 她问我 ; " 你哪来的? " 我回答说 " 我是日本人 " 现在回想起来,或许正是这回答,让我开始了一段漫长的旅程。她嘴里进发出的激烈言语,对当时中文贫乏的我来说,大抵是理解不了的。 " 以前,村里来了许多日本人。 " " 日本人杀了很多村里人。 " " 在那之后,第一次遇到日本人。 " 只有这三句话我还是马上就懂了的。原来我一不小心踏入的这个地方居然就是曾被 " 三光作战 " 的村庄。
 时隔60年之后,作为再次出现的日本人,我的感觉真是如座针毡。是否赶紧离开此地,我有点犹豫不决。但看着孩子们专心倾听老奶奶讲过去故事时那天真烂漫的精神,我的心也慢慢回到了现实。他日一定再访此地,我心中暗暗起誓。
 机会比预想的要快的多,次年我就和几位大学生一起再次访问了村庄。带上翻译,我们从四位老人家处打听当年的情况。他们有的不善言辞,有的却滔滔不绝,但是不管如何,尽是些对我们日本人来说莫如想把耳朵塞起来一般,令人羞愧的言语。谈话的最后,我们问一个当年母亲被杀害,房屋被焚毁的老人, " 您怎么看60年后再来此地的日本人? " 除了对我们从那么遥远的地方来表示慰问之外,他回应道 ; " 希望你们回到日本之后把这的事告诉大家。 "
 若是有什么对日本人的怨恨,或被提出金钱补偿之类,我早已都做好准备。可却听到老人这样的一席话,我的心被强烈的震撼了。在这个即使现在仍被指定国家级贫困地区的贫穷的村庄,仍残存当年受害伤痕的老人们,对日本人的我们到底谋求什么呢? 我强烈的想知道答案。次年的2005年,我离开了为学中文而呆了4年的北京,单身一人搬到了可以俯览黄河的山西省啧口李家山村。 …。
    *  *  *
 中国語に訳された「前書」の一部を紹介しました。
 「どこから来たのか?」と声をかけた老婦人は、彼女が「私は日本人です」と答えるやいなや、激しい言葉を浴びせかけたのです。老婦人の激しい言葉は、ほとんど聞き取れなかったそうですが、「昔、村に日本人がたくさん来た」「日本人は多くの村人を殺した」「あれ以来初めて来た日本人だ」という、三つの言葉は聞き取れたというのです。なんと彼女は、三光作戦がかつて展開された村に何ら注意を払うことなく足をふみこんでいたのです。そのときは、針の筵に座らされているような感覚を受け、すぐにはどうしていいかわからなかったけれど、もう一度この地を訪れたいと心に誓ったのだそうです。
 次の年、何人かの学生とともに通訳を伴って、この地を訪れ、4人の老人から当時の様子を聞いたところ、どれもこれも耳を塞ぎたくなるような、聞くに堪えない恥じ入るようなことばかりであったというのです。話のあとに、母親を殺され家を焼かれた老人に、「60年後の今、またこの地を訪れた日本人をどう思いますか」と聞いたところ、「日本に帰ったらこの事実をみんなに伝えて欲しい」と言ったのだそうです。恨みや金銭的補償の話なら、ある程度心の準備をしていた彼女は、この言葉に強烈に心を揺さぶられました。国家的貧困地域に指定されているこの地で、当時傷を受けた老人達はわれわれに何を求めているのだろか?彼女は、その答えをどうしても手に入れたくて、中国語の勉強のために4年間過ごした北京を離れ、2005年にひとり山西省嘖口の李家山に越してきたというのです。

<余談>
 中国語の文章をこれだけ入力するのに、かなり骨が折れました。私は、ピンイン入力でおこなっているのですが、そのためには発音のローマ字表記にあたるピンインを知らないと入力できないからです。聞くところによれば、中国では携帯電話の普及率がきわめて高いのですが、メールを使いこなす人は多くないそうです。メールを書くには、ピンイン入力ができないとだめだからです。つまり標準語である普通話(プートンホァ)を話せて書けるというきちんとした教育をうけてない人は、メールを書けないのだそうです。

2011年8月15日月曜日

『黄土地上来了日本人』

 今日は、旧日本軍が降伏した終戦記念日です。この日に相応しいかどうか、人によって見方が違うかもしれませんが、一冊の本を紹介したいと思います。『黄土地上来了日本人』(「黄色い大地に日本人がやって来た」)です。
 以前このブログでも紹介したことのある、中国山西省の黄土高原の農村で日本軍の三光作戦について、実際にこの作戦の被害者である老人達からその事実を聞き取って本にした大野のり子さんの二冊目の報告集です。
 ただ残念なことに、この本は、東京大学東洋文化研究所というところから出版されていて、一般の書店では販売されていなくて、寄贈された図書館でしか読むことができません。私の住んでいる長野県では、長野市や松本市の市立図書館にはなくて、地元の小さな市立図書館にはなぜか寄贈されていたので、幸運にも読むことができました。それともう一つ、編者の大野さんの「前書」以外は、全部中国語であるということです。
 しかし、内容は、幼いころに日本軍の三光作戦に遭遇した彼らの見聞きした事実がビッシリと凝縮されており、中国語のままであるが故に無用な感情注入もなく、三光作戦というものがどのようなものだったのかが連綿と語り継がれていきます。
 黄土高原にもう何年も住み着いて、聞き取りをしている大野さんは研究者でもなんでもありません。信濃むつみ高校のスタッフというのが彼女の肩書きのようです。そうした彼女がこの地に住み着いて三光作戦の歴史的事実を聞き取って日本人に伝えたいと考えるに至ったエピソードもまた感動的です。それは、「前書」に語られていますが、長くなるので後日機会があれば紹介していきたいと考えています。
 

2011年8月13日土曜日

ニンジンの種のまき直し

 7月の上旬に蒔いたニンジンの種は、猛暑と乾燥のために、結局発芽しませんでした。トマトやナスの世話におわれて、水やりがいい加減だったのも一因なのですが。
 そこで、「ベーターリッチ」の残りとあらたに購入した「ひとみ五寸」1dlを7月の下旬に蒔き直しました。今度は、ちょうど夕立も続き、うまく発芽しました。ニンジンの発芽は難しいとわかっていても、この有様です。ニンジンの種代に一万円近く投資してしまいました。今度は、発芽しないといけないと思って、密に種を蒔いたので、間引きも大変です。まったく、踏んだり蹴ったりです。