来年度は、野菜栽培にもう少し本腰をいれようと思って、水田2枚を畑にすることにしました。そのために、稲藁を大量に投入したり、堆肥を入れて土作りをおこなっています。
堆肥は、農協で販売しているのは40リットル入りで450円もするので、生活クラブの餌に抗生剤をつかっていない鶏糞をもとにした堆肥を使うことにしました。これは、2トン車で配達料込みで12,000円でした。農協の堆肥の半分以下の値段です。袋に詰めて、運びます。(写真上)
均等に撒けるように、畑に配置しておき、ひと袋ずつ撒きます。これが結構重労働でした。(写真下)
堆肥を使った農作物は、有機栽培としてもてはやされていますが、その堆肥の内容物にまでさかのぼって検討してみないと、安全性は保証されません。とくに最近は、家畜の餌に抗生剤などが混ぜられていると聞けば尚更です。有機栽培だからといって、無条件でいい品質だとはいえないのです。
その上で、価格と肥料としての有効性が問題となってきます。いわゆるコストパフォーマンスという観点です。こういうことを考えていけば、一言で有機栽培といっても、いろいろ考えなければならない問題があるというのが率直な感想です。
2010年11月30日火曜日
2010年11月29日月曜日
季節はずれのチンゲンサイの花
2010年11月25日木曜日
ヒヨドリの食害にあったリンゴ
ヒヨドリに食べられたリンゴ
今年は、ヒヨドリが異常に多いのか、活動が活発なのか、ヒヨドリの食害にあったリンゴがとても多いです。それも色付きが好く、熟していそうなものを、少しずつついばんでいくから始末におえません。
私は、鳥よけの糸をはったぐらいですが、近くのリンゴ農家は木をすっぽりと覆うネットをかぶせたにもかかわらず、隙間から入られてかなり食べられたといっていました。
ヒヨドリはホバリングできるし、頭もよく学習能力もあるらしく、完璧に防ぐのは至難の業らしいです。数個を集中的に食べて、他には手を着けなければまだ許されるのですが、ちょっとずつついばんでかなりの数をダメにするので、本当に許し難いです。
今年は、ヒヨドリが異常に多いのか、活動が活発なのか、ヒヨドリの食害にあったリンゴがとても多いです。それも色付きが好く、熟していそうなものを、少しずつついばんでいくから始末におえません。
私は、鳥よけの糸をはったぐらいですが、近くのリンゴ農家は木をすっぽりと覆うネットをかぶせたにもかかわらず、隙間から入られてかなり食べられたといっていました。
ヒヨドリはホバリングできるし、頭もよく学習能力もあるらしく、完璧に防ぐのは至難の業らしいです。数個を集中的に食べて、他には手を着けなければまだ許されるのですが、ちょっとずつついばんでかなりの数をダメにするので、本当に許し難いです。
2010年11月22日月曜日
里芋の保存
今年の里芋の収穫は全部終わりました。夏にマルチをはいで、追肥と土寄せをおこなったので、例年よりさらによい芋をとることができました。
里芋は、根を広くはりめぐらすので、畝と畝のあいだにも肥料を撒く必要があることを今年はじめて知りました。いままでは、マルチをとらなかったので、根の張り具合がわからなかったのですが、今年はマルチをとったので根の張り具合も観察でき、そうしたこともわかるようになりました。
野菜を育てるにも、日常の観察と分析がきわめて重要であること痛感しています。
ところで、今年も種芋を確保するために、ビニールハウスのなかに穴を掘って、里芋を埋め込みました。
穴はかなり深く掘って、里芋は株のまま逆さにして埋めます。逆さにしておけば、上にかけた土の重みでも子芋は離れません。 (写真上) 保温のため、株のまわりには籾殻を入れて、さらに土をかけます。
このあたりは、真冬には氷点下10度近くまで温度が下がるので、土をかけた上にさらに保温のために籾殻を厚くかぶせます。 (写真中)
今年は、ビニールハウス内に穴を掘ったので、温度を一定に保つためにさらにシートをかけてみました。 (写真下)
里芋は、根を広くはりめぐらすので、畝と畝のあいだにも肥料を撒く必要があることを今年はじめて知りました。いままでは、マルチをとらなかったので、根の張り具合がわからなかったのですが、今年はマルチをとったので根の張り具合も観察でき、そうしたこともわかるようになりました。
野菜を育てるにも、日常の観察と分析がきわめて重要であること痛感しています。
ところで、今年も種芋を確保するために、ビニールハウスのなかに穴を掘って、里芋を埋め込みました。
穴はかなり深く掘って、里芋は株のまま逆さにして埋めます。逆さにしておけば、上にかけた土の重みでも子芋は離れません。 (写真上) 保温のため、株のまわりには籾殻を入れて、さらに土をかけます。
このあたりは、真冬には氷点下10度近くまで温度が下がるので、土をかけた上にさらに保温のために籾殻を厚くかぶせます。 (写真中)
今年は、ビニールハウス内に穴を掘ったので、温度を一定に保つためにさらにシートをかけてみました。 (写真下)
2010年11月20日土曜日
中国・雲南の旅 (6) 印象最深刻的事
昆明から上海浦東空港へ乗ってきた中国東方航空便
最終日は、昆明を朝早く発って、上海で乗り換えて成田に帰ります。どちらも中国東方航空便で、今度は気流のかげんもあって、成田へ向かう便の方が時間がかからず、上海から成田までは2時間少しで着いてしまいました。
昆明から上海へ向かう飛行機の中でのこと、C先生が私の隣にすわっている中国人になにやら話しかけているのです。私の頭越しに話をしているので、中国語での会話がいやおうなしに耳に入ってきます。
「あなたの隣の男性は日本人で、中国語が話せるから、上海までは時間があるので、是非彼と話してやってください。彼の勉強になりますから。」
「む、む、む。後は帰るだけだと思っていたのに、もうひと汗かかなければならないとは‥。」
でも、先生がつくってくださったせっかくのチャンスです。無にはできません。と、いうわけで上海までの帰りの飛行機は、私にとって中国語教室になってしまいました。
「上海語が話せますか?」
「話せません。あなたは、上海人ですか?」
「そうです。」
こんなやりとりの後、彼が上海人で、文化大革命で雲南に下放になって、仕事も定年になり下放から40年以上もたった今日はじめて上海に帰ることができたこと、飛行機に乗るのもこれが初めてだ、といったことを話してくれました。もとより、私の中国語のレベルでは、中国人と文化大革命のことをいろいろと論じ合うことはできません。ずっと聞き役に回っていただけですが、文化大革命で苦労したこと、牛の世話をしていて牛に米を食われてしまって農民にでかく怒られたことなどをいろいろ聞くことができました。
そして、彼は最後にこうつぶやきました。
「文化大革命錯了」 (文化大革命は誤りを犯した。)
文化大革命については、私もいろいろ本で読んだりして多少の知識はあります。でも生の声を聞くのは初めてです。下放になって、現地の人と結婚した場合は故郷に帰ることが許されず(このことは後でC先生から聞きました)、いまそうした規制も緩められてきて、定年後の今頃になってはじめて故郷・上海の土を踏むことができるようになったらしいのです。そしてそうした苦難の人生を背負った人の生の声を聞くことができ感無量でした。
飛行機が上海浦東空港に着陸した時、彼と彼の奥さんと私の三人で顔を見合わせて、思わず「到了(ダオラ)」(着いた)と叫んで喜び合いました。その時は、飛行機に初めて乗った夫婦がホットしてそう叫んだぐらいに考えていたのですが、実は彼にとっては40年の空白を埋める一歩を踏み出した「到了」ではなかっただろうかと思うようになりました。
雲南への下放とその後の40年あまりの人生は、彼にとって避けることのできないまさに「没办法(メイバンファ)」(どうすることもできない)なことであったかもしれませんが、上海の土を踏んだことを第一歩として今後少しでもより幸せな人生をおくられることを願わずにはいられません。
この飛行機の中での出来事が、私にとって今回の中国・雲南の旅のなかで「印象最深刻的事(もっとも印象に残ったこと)」となりました。
最終日は、昆明を朝早く発って、上海で乗り換えて成田に帰ります。どちらも中国東方航空便で、今度は気流のかげんもあって、成田へ向かう便の方が時間がかからず、上海から成田までは2時間少しで着いてしまいました。
昆明から上海へ向かう飛行機の中でのこと、C先生が私の隣にすわっている中国人になにやら話しかけているのです。私の頭越しに話をしているので、中国語での会話がいやおうなしに耳に入ってきます。
「あなたの隣の男性は日本人で、中国語が話せるから、上海までは時間があるので、是非彼と話してやってください。彼の勉強になりますから。」
「む、む、む。後は帰るだけだと思っていたのに、もうひと汗かかなければならないとは‥。」
でも、先生がつくってくださったせっかくのチャンスです。無にはできません。と、いうわけで上海までの帰りの飛行機は、私にとって中国語教室になってしまいました。
「上海語が話せますか?」
「話せません。あなたは、上海人ですか?」
「そうです。」
こんなやりとりの後、彼が上海人で、文化大革命で雲南に下放になって、仕事も定年になり下放から40年以上もたった今日はじめて上海に帰ることができたこと、飛行機に乗るのもこれが初めてだ、といったことを話してくれました。もとより、私の中国語のレベルでは、中国人と文化大革命のことをいろいろと論じ合うことはできません。ずっと聞き役に回っていただけですが、文化大革命で苦労したこと、牛の世話をしていて牛に米を食われてしまって農民にでかく怒られたことなどをいろいろ聞くことができました。
そして、彼は最後にこうつぶやきました。
「文化大革命錯了」 (文化大革命は誤りを犯した。)
文化大革命については、私もいろいろ本で読んだりして多少の知識はあります。でも生の声を聞くのは初めてです。下放になって、現地の人と結婚した場合は故郷に帰ることが許されず(このことは後でC先生から聞きました)、いまそうした規制も緩められてきて、定年後の今頃になってはじめて故郷・上海の土を踏むことができるようになったらしいのです。そしてそうした苦難の人生を背負った人の生の声を聞くことができ感無量でした。
飛行機が上海浦東空港に着陸した時、彼と彼の奥さんと私の三人で顔を見合わせて、思わず「到了(ダオラ)」(着いた)と叫んで喜び合いました。その時は、飛行機に初めて乗った夫婦がホットしてそう叫んだぐらいに考えていたのですが、実は彼にとっては40年の空白を埋める一歩を踏み出した「到了」ではなかっただろうかと思うようになりました。
雲南への下放とその後の40年あまりの人生は、彼にとって避けることのできないまさに「没办法(メイバンファ)」(どうすることもできない)なことであったかもしれませんが、上海の土を踏んだことを第一歩として今後少しでもより幸せな人生をおくられることを願わずにはいられません。
この飛行機の中での出来事が、私にとって今回の中国・雲南の旅のなかで「印象最深刻的事(もっとも印象に残ったこと)」となりました。
2010年11月19日金曜日
中国・雲南の旅 (5) 麗江
世界文化遺産の麗江古城の街並み
午後は、虎跳峡から戻って、麗江見物です。麗江は、世界遺産に登録されてから、周辺が次々に開発されていまや人口100万人を超える大都市になり、近くには空港もあります。宋代の末期に納西(ナシ)族によって建設された麗江古城には今も人が住み、通りの両側にはお土産などを売る店がところ狭しと軒を連ねています。
前夜に観た少数民族の歌と踊りのショーです。雲南省には多くの少数民族がおり、麗江は納西(ナシ)族が多く住んでいるとのことです。ちなみにこのショーの入場料は日本円で3500円で、とても高かったです。物価が安いから、とくにそう感じました。
納西(ナシ)族は、生きた象形文字(トンバ文字)を持っていることで有名です。また、納西(ナシ)族の支族の摩梭人には走婚(通い婚)の習慣があって、そうした民俗学的意味でも興味深い地域です。博物館へ見学に行きました。
博物館では、「東巴(トンバ)先生」がトンバ文字を書いて見せていました。もう、この文字を使える人は極めて少なくなっているとのことでした。
「東巴(トンバ)先生」が書いたトンバ文字を売っていたので、買ってきました。紙は、沈丁花の木を漉いたもので虫が着かず、極めて長い間もつそうです。文字の内容は「天天開心」、つまり「毎日愉快だ」ということのようです。
いよいよ麗江古城に向かいます。中国語で城は街の意味ですから、古城といっても日本でいうお城ではありません。広場では納西(ナシ)族の女性が踊りを踊っていました。すごい人出です。麗江には一日二万人の観光客が訪れて、そのうちの八割は中国人だそうです。雲南は、中国人にとってもあこがれの地であるようです。
古城のなかにある宿の入り口です。漢字の下にトンバ文字が書かれています。
麗江古城の街中の写真を以下載せておきます。
観光客がとても多く、ごった返していました。街中は水路がはりめぐらされ、柳の青さが柔らかく、街中の喧騒を静めてくれているような感じがしました。
夕方、玉龍雪山がうっすらと見えました。これで麗江の街ともお別れです。
麗江空港のカウンターです。この空港ビルは今までのものが手狭になってきたので、新しくなったばかりだといっていました。昆明まで空路4,50分。麗江や香格里拉(シャングリラ)はとても人気があるので、訪れる人はどんどん増えてくるでしょう。
午後は、虎跳峡から戻って、麗江見物です。麗江は、世界遺産に登録されてから、周辺が次々に開発されていまや人口100万人を超える大都市になり、近くには空港もあります。宋代の末期に納西(ナシ)族によって建設された麗江古城には今も人が住み、通りの両側にはお土産などを売る店がところ狭しと軒を連ねています。
前夜に観た少数民族の歌と踊りのショーです。雲南省には多くの少数民族がおり、麗江は納西(ナシ)族が多く住んでいるとのことです。ちなみにこのショーの入場料は日本円で3500円で、とても高かったです。物価が安いから、とくにそう感じました。
納西(ナシ)族は、生きた象形文字(トンバ文字)を持っていることで有名です。また、納西(ナシ)族の支族の摩梭人には走婚(通い婚)の習慣があって、そうした民俗学的意味でも興味深い地域です。博物館へ見学に行きました。
博物館では、「東巴(トンバ)先生」がトンバ文字を書いて見せていました。もう、この文字を使える人は極めて少なくなっているとのことでした。
「東巴(トンバ)先生」が書いたトンバ文字を売っていたので、買ってきました。紙は、沈丁花の木を漉いたもので虫が着かず、極めて長い間もつそうです。文字の内容は「天天開心」、つまり「毎日愉快だ」ということのようです。
いよいよ麗江古城に向かいます。中国語で城は街の意味ですから、古城といっても日本でいうお城ではありません。広場では納西(ナシ)族の女性が踊りを踊っていました。すごい人出です。麗江には一日二万人の観光客が訪れて、そのうちの八割は中国人だそうです。雲南は、中国人にとってもあこがれの地であるようです。
古城のなかにある宿の入り口です。漢字の下にトンバ文字が書かれています。
麗江古城の街中の写真を以下載せておきます。
観光客がとても多く、ごった返していました。街中は水路がはりめぐらされ、柳の青さが柔らかく、街中の喧騒を静めてくれているような感じがしました。
夕方、玉龍雪山がうっすらと見えました。これで麗江の街ともお別れです。
麗江空港のカウンターです。この空港ビルは今までのものが手狭になってきたので、新しくなったばかりだといっていました。昆明まで空路4,50分。麗江や香格里拉(シャングリラ)はとても人気があるので、訪れる人はどんどん増えてくるでしょう。
2010年11月18日木曜日
中国・雲南の旅 (4) 虎跳峡
世界自然遺産・三江併流の哈巴雪山地域にある虎跳峡
旅の4日目は、麗江の北側約60キロのところにある虎跳峡へと向かいました。虎跳峡は、香格里拉(シャングリラ)へ向かう道の途中にあり、哈巴雪山と玉龍雪山に挟まれた大峡谷で、それまでゆるやかな流れであった金沙江が、激流へとかわって細い谷間を流れ下ります。両側の断崖は2000メートル以上に達しているそうです。
バスの中からの金沙江の眺め。ゆったりと流れていきます。
金沙江がよく見えるところで、バスが停まってくれました。両側から山が迫ってきていますが、道の沿線には、農村が点在しています。
沿線の農村風景です。どんな山奥にいっても、携帯電話の中継基地があります。塔には、「中国移動」とか「中国聯通」といった看板がかかっているので、遠くからでもよく見えます。「中国移動」が圧倒的に多かったです。
虎跳峡が近づくと、哈巴雪山が見えてきました。標高5396メートルだそうです。
川の反対側には、玉龍雪山がすこし顔を出しています。玉龍雪山の最高峰は、標高5596メートルで、麗江の北側に位置する名峰です。
虎跳峡の虎跳石があるあたりまで遊歩道がつくられていて、バスをおりて歩いて向かいます。駐車場には、たくさんの売店がでています。ほとんどが果物などの地元でとれた食べ物を売っています。
こんなところにも、携帯電話の基地がありました。(写真の上部に半分ほど写っています。) 観光客はほとんどが中国人のようでしたが、多くが携帯電話とデジカメをもっていて、沿岸部の富裕層が中心なのだろうと思いました。
激流のなかの大きな石が虎跳石です。虎がこの石を踏み台にして川を渡ったという言い伝えからこの名前がついたそうです。
岩を砕いて作った遊歩道です。よくこんなものを作ったものだと感心しました。
「落石注意」の立て札です。「落石注意。壁側によって速やかに通ってください」とあります。「急いで通ることが安全対策になるのかなあ」と首を捻ってしまいました。これが中国的発想なのかも知れません。
旅の4日目は、麗江の北側約60キロのところにある虎跳峡へと向かいました。虎跳峡は、香格里拉(シャングリラ)へ向かう道の途中にあり、哈巴雪山と玉龍雪山に挟まれた大峡谷で、それまでゆるやかな流れであった金沙江が、激流へとかわって細い谷間を流れ下ります。両側の断崖は2000メートル以上に達しているそうです。
バスの中からの金沙江の眺め。ゆったりと流れていきます。
金沙江がよく見えるところで、バスが停まってくれました。両側から山が迫ってきていますが、道の沿線には、農村が点在しています。
沿線の農村風景です。どんな山奥にいっても、携帯電話の中継基地があります。塔には、「中国移動」とか「中国聯通」といった看板がかかっているので、遠くからでもよく見えます。「中国移動」が圧倒的に多かったです。
虎跳峡が近づくと、哈巴雪山が見えてきました。標高5396メートルだそうです。
川の反対側には、玉龍雪山がすこし顔を出しています。玉龍雪山の最高峰は、標高5596メートルで、麗江の北側に位置する名峰です。
虎跳峡の虎跳石があるあたりまで遊歩道がつくられていて、バスをおりて歩いて向かいます。駐車場には、たくさんの売店がでています。ほとんどが果物などの地元でとれた食べ物を売っています。
こんなところにも、携帯電話の基地がありました。(写真の上部に半分ほど写っています。) 観光客はほとんどが中国人のようでしたが、多くが携帯電話とデジカメをもっていて、沿岸部の富裕層が中心なのだろうと思いました。
激流のなかの大きな石が虎跳石です。虎がこの石を踏み台にして川を渡ったという言い伝えからこの名前がついたそうです。
岩を砕いて作った遊歩道です。よくこんなものを作ったものだと感心しました。
「落石注意」の立て札です。「落石注意。壁側によって速やかに通ってください」とあります。「急いで通ることが安全対策になるのかなあ」と首を捻ってしまいました。これが中国的発想なのかも知れません。
2010年11月17日水曜日
中国・雲南の旅 (3) 大理
大理古城のなかで散策する観光客
昆明で早い夕食をとって、大理に向かいます。大理は昆明から約350キロも離れていますから、かなり遠いです。しかし、昆明から大理の間には信号はひとつもありませんから、バスでも4~5時間で着いてしまいます。
大理で泊まった亜星大飯店のロビーのなかに掲げられていた巨大絵。ペー族(白族)の踊りが描かれています。
大理の西側にある蒼山。標高4千メートル以上あるそうです。3日目は、この蒼山の中腹にある古刹・中和寺から始まります。
リフトに乗って約25分かかるので、かなりの距離があります。歩けば2時間かかるそうです。ここは、気候が温暖なので、樹木も青々しています。
道教の寺院の中和寺です。一人ひとりに、お参りするように線香をわたしてくれていました。
ここからは、大理市内と洱海が展望できますが、この日は霞んでいてかすかに見えるだけでした。
中和寺の境内でお土産を売っていた女性が、手編みのスリッパを編んで売っていました。30元だそうです。とても綺麗です。
市内に戻って、大理古城の観光です。城壁のうえには、堂々たる城門がそびえています。
城門の前で、ペー族の民族衣装を着た若い女性が観光客に、一緒に写真を撮らないかと営業をしています。観光客と一緒に写真におさまるモデルが彼女たちの仕事のようです。
古城内は、観光客相手の店が軒を連ねています。ニセモノが多いから注意するようにと、ガイドが念を押していました。大理は銀の産地で、銀製品の店がとても多かったです。
裏路地を少し奥に入ると、地元の人の市場がありました。この辺りは、土地も肥えていて野菜類が豊富で、また洱海でとれる魚介類も豊かで、市場はとても賑わっていました。
こちらは、ペー族の装飾品を売っている店です。売り子もペー族の民族衣装を着ています。
「茶葉古道」の拠点となっていた喜州の富豪の家では、ペー族の民族衣装や踊りのショウがあって、50元払って参観しました。
周城は藍染の産地として有名だそうで、ここにも立ち寄りました。
バスの中からの大理の農村の眺めです。雲南省は、鉄分の多い痩せた赤土が多いのですが、大理は肥えた黒土で、蒼山と洱海のあいだの広大な土地では、農業が盛んだそうです。青々した作物はニンニクだそうで、日本にも輸出しているとのことでした。
大理観光を終え、麗江にむかいます。大理と麗江のあいだは約170キロだそうで、バスで約2時間の距離です。上は、途中トイレ休憩のために停まった給油所で撮った写真です。発動機で動くトラックです。いま、中国では軽油が品不足だそうで、給油所の前にはトラックの長い列ができていました。しかし、1リットル8元ぐらいの少し高い軽油を入れようと思えば、このように並ばなくてもすぐ入るのだそうです。
こちらは、オート三輪のトラックです。オート三輪や発動機のトラックは、かなりたくさん見かけました。
昆明で早い夕食をとって、大理に向かいます。大理は昆明から約350キロも離れていますから、かなり遠いです。しかし、昆明から大理の間には信号はひとつもありませんから、バスでも4~5時間で着いてしまいます。
大理で泊まった亜星大飯店のロビーのなかに掲げられていた巨大絵。ペー族(白族)の踊りが描かれています。
大理の西側にある蒼山。標高4千メートル以上あるそうです。3日目は、この蒼山の中腹にある古刹・中和寺から始まります。
リフトに乗って約25分かかるので、かなりの距離があります。歩けば2時間かかるそうです。ここは、気候が温暖なので、樹木も青々しています。
道教の寺院の中和寺です。一人ひとりに、お参りするように線香をわたしてくれていました。
ここからは、大理市内と洱海が展望できますが、この日は霞んでいてかすかに見えるだけでした。
中和寺の境内でお土産を売っていた女性が、手編みのスリッパを編んで売っていました。30元だそうです。とても綺麗です。
市内に戻って、大理古城の観光です。城壁のうえには、堂々たる城門がそびえています。
城門の前で、ペー族の民族衣装を着た若い女性が観光客に、一緒に写真を撮らないかと営業をしています。観光客と一緒に写真におさまるモデルが彼女たちの仕事のようです。
古城内は、観光客相手の店が軒を連ねています。ニセモノが多いから注意するようにと、ガイドが念を押していました。大理は銀の産地で、銀製品の店がとても多かったです。
裏路地を少し奥に入ると、地元の人の市場がありました。この辺りは、土地も肥えていて野菜類が豊富で、また洱海でとれる魚介類も豊かで、市場はとても賑わっていました。
こちらは、ペー族の装飾品を売っている店です。売り子もペー族の民族衣装を着ています。
「茶葉古道」の拠点となっていた喜州の富豪の家では、ペー族の民族衣装や踊りのショウがあって、50元払って参観しました。
周城は藍染の産地として有名だそうで、ここにも立ち寄りました。
バスの中からの大理の農村の眺めです。雲南省は、鉄分の多い痩せた赤土が多いのですが、大理は肥えた黒土で、蒼山と洱海のあいだの広大な土地では、農業が盛んだそうです。青々した作物はニンニクだそうで、日本にも輸出しているとのことでした。
大理観光を終え、麗江にむかいます。大理と麗江のあいだは約170キロだそうで、バスで約2時間の距離です。上は、途中トイレ休憩のために停まった給油所で撮った写真です。発動機で動くトラックです。いま、中国では軽油が品不足だそうで、給油所の前にはトラックの長い列ができていました。しかし、1リットル8元ぐらいの少し高い軽油を入れようと思えば、このように並ばなくてもすぐ入るのだそうです。
こちらは、オート三輪のトラックです。オート三輪や発動機のトラックは、かなりたくさん見かけました。
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